武蔵坊弁慶を奉る弁慶社

JR紀伊田辺駅前には弁慶の銅像が建立されており、この鬪雞神社境内にある弁慶社は武蔵坊弁慶を奉っています。
弁慶社は弁慶松と呼ばれる地元の方がその生涯を讃えて植えた松の根方にあったお社です。弁慶松は五代目まで片町の一角に植えられておりましたが、昭和五十年に枯死し、六代目は田辺市庁舎前に植え継がれています。五代目弁慶松の伐採以降に有志の手で三十年に渡り守り継がれていましたが、鬪雞神社の一角に新たに弁慶社として建立されました。

忠孝の鑑として武蔵坊弁慶が人気

牛若丸(源義経)と弁慶が出会ったとされる五条大橋

神社内の湛増・弁慶の像

「勧進帳」や「船弁慶」をはじめ、歌舞伎や人形浄瑠璃などでもその名を知られる武蔵坊弁慶ですが、怪力・豪傑の代表格として語られます。京都・五条大橋での義経との出会い、生涯一家臣として幾多の危機、苦難からすくい、奥州衣川で義経を守り壮烈な立往生を遂げた壮絶な最期など、多くの逸話に垣間見えるその奥深い人間性は、「忠孝の鑑」として後世令和を生きる今私たちの心を惹きつけています。

紀伊田辺駅前の弁慶像

弁慶は田辺市で出生したという弁慶、父は21代熊野別当・湛増(たんぞう)、母は二位大納言の姫とされ、幼名を鬼若といいました。田辺を出た彼は比叡山へと修行に出向き、山を下りる際に自ら付けたのが、現在一般的に知られている武蔵坊弁慶という名前です。田辺市内に残る足跡の多くは、出生の地、産湯の井戸、幼少時に腰かけた石など、彼が鬼若と称された時代のものだと伝えられています。田辺市内には誕生にまつわる産湯の井戸、産湯の釜、腰掛石など数多くの遺跡や遺物が残されています。父・湛増が、源平どちらに味方するかを闘鶏で決めたと伝わる闘鷄神社なども合わせて訪れることで、弁慶が背負っていた「宿命」を、より大きな感じ取れるかもしれません。

弁慶社アクセス 鬪雞神社境内内